STORY

原爆に関わる人、被ばくした人、家族を亡くした人、様々な立場の想いを映し出すためORIZURUのキセキチームが一つ一つ丁寧に物語を紡いでいきます。

禎子の折り鶴

佐々木禎子は1945年に広島で被ばくし、その10年後に白血病を発症。1955年2月21日に広島赤十字病院に入院し、8か月の入院生活の中で折った折り鶴は1500羽にものぼる。禎子の死後、同級生らの募金運動により広島平和記念公園内に禎子をモデルとして『原爆の子像』が建てられた。禎子の兄である佐々木雅弘と甥・住幸、祐滋は禎子の折り鶴を世界各国に寄贈し平和を訴える活動を行っている。

原爆の子像

禎子の死後、同級生たちが有志で集まり禎子のように原爆で亡くなった子どもたちを慰霊する像の建立に向けて活動を開始。それから約2年半後の1958年、平和記念公園で原爆の子像の除幕式がとり行われた。その後、像の建立活動は区切りを迎え折り鶴の映画や本の出版などの活動が広がっていき、佐々木家はサダコレガシーを発足させた。

Clifton Truman Daniel

クリフトン・トルーマン・ダニエル氏の祖父は原爆投下を決めた大統領ハリー・トルーマン氏。原爆に関心を抱くようになったのは禎子の千羽鶴の物語を、当時10歳だった息子が学校から持って帰ってきたことがきっかけだった。その後、佐々木親子と交流を持ち平和活動を行っている。ペーパークレーンファンデーションのボードメンバー。

心の中に生きる禎子へ

自身も被爆し妹の禎子を失った佐々木雅弘。禎子の死を忘れまいと同級生が中心になり、禎子をモデルにした「原爆の子像」が建立されました。思いやりを嬉しく思ったのも束の間、思いもよらぬ批判に晒された父は広島を出る事を決意。娘の禎子が家族から離れていくことに苦しんだ父。 佐々木雅弘は「禎子を取り戻してほしい」という父の遺言を胸に活動を始めた。

佐々木禎子の兄・雅弘とその家族

平和の火 / 原爆の残り火

平和の塔の中に燃える“平和の火”は、焦土と化した広島から星野村の山本達雄さんが持ち帰り、やがて村が引き継いで、燃え続けている。世界の恒久平和を願う星野村の人々の心のシンボル。この火をパールハーバーへ。

八女市星野村に灯る原爆の火

佐々木家

SADAKO SASAKI

佐々木禎子 広島にて被ばく。その後、白血病を発症し、入院先の病院で鶴を折り続ける。遺品となった折り鶴は世界各国に寄贈されている。病床にあっても家族のことを気遣い、痛い、注射を打ってほしいと言わずに堪えていた。

MASAHIRO SASAKI(兄)

佐々木雅弘 禎子の兄。ともに被ばくしているが、雅弘は病魔に襲われることはなかった。入院中の禎子の病名を知らず、退院できると信じて見舞っていた。禎子の死後、折り鶴を寄贈し平和について伝える活動を続ける。

SHIGEO SASAKI(父)

佐々木繁雄 禎子の父。腕のいい美容師であったが知人の借金の保証人になったことから禎子の病床を支え切ることができなかった。痛み止めの注射1本、満足に打ってあげられなかったと悔やみ続けていた。


FUJIKO SASAKI(母)

佐々木フジ子 禎子の母。我慢強くおとなしい人であった。姑のマチに叱られても口答えしたことが一度もなかったと、繁雄がのちに語っている。

YUJI SASAKI(甥)

佐々木祐滋 禎子の甥。成人後に父・雅弘の平和活動を手伝うようになり、学校でも歌を交えた講演会を行っている。雅弘の活動をトルーマン氏といった人々とつなげ、世界に広げた立役者。